キャリア・学び

臨床検査×人文学のWebエッセイ「見えないものを読もうとして」 #01
ロビーを眺めるその理由

2026.10.26 06:00

「読む」という言葉について考えたことはあるだろうか。

私は臨床検査技師として働く傍ら、大学院で文学を学んでいる。以前の私は、本を読むことと、空気を読むことが、同じ「読む」という言葉で表現されていることを不思議に思ったことはなかった。

しかし、文学を学ぶ中で、「読む」とは文字を追うことだけではなく、その背後にある意味や関係性を汲み取ろうとする営みでもあると考えるようになった。小説を読む。広告を読む。街並みを読む。あるいは、人を読む。「読む」という言葉は、私が思っていた以上に広い世界を持っていたのである。

そう考えたとき、私はふと思った。では、検査室で私たちが「データを読む」とき、本当はなにを読んでいるのだろうか。

 

検査室へ戻る前に

先日の夜勤明けのことである。その日は輸血業務を担当したのだが、実に慌ただしい一晩だった。夜勤の“相方”として検体検査に従事した後輩技師は、状況を察して何度もフォローに入ってくれた。朝になり、引き継ぎを終えた私は、その後輩を誘って売店にアイスを買いに行った。

「鈴木さん、俺ね、仕事に入る前に必ずやることがあるんすよ」

病院1階のロビーで、検査室に戻るエレベーターを待っているときだった。

「おう、なにをしとるんだ?」

そう尋ねると、彼は多くの患者で混み合うロビーへ視線を向けた。

「一度、このロビーを眺めるんです。そうするとね、自分の仕事が実際にあの人たちの生活に繋がってるんだなぁ、って思えるんすよね」

ちょうどエレベーターが到着した。扉が閉まると、患者たちの姿は視界から消えた。

「それだけでね、めっちゃ忙しくても、まあ頑張ろうかなって踏ん張れるんすよ」

その言葉が胸に残った。

 

検査結果の向こう側を読む

臨床検査業務は、ともすれば無骨な仕事である。忙しくなればなるほど、その無骨さは増していく。提出された検体には患者名が記されている。それでも気づけば採番された番号だけを見て業務を進めてしまう。採血業務でも、生理機能検査でも、「誰々を担当した」という感覚は薄れ、「今日は何件こなした」という言葉に置き換わってしまうことがある。しかし、本来私たちが読んでいるのは、数値だけではないはずだ。

私は、「データを読む」という行為には、数値を受け取る以上の営みがあると思っている。提出された検体を測定し、結果を報告する。その一連の流れの中で、「この患者さんになにが起きているのだろう」と想像すること。それもまた、「読み」の一つではないだろうか。

もちろん、検査には客観性がなにより重要である。思い込みで結果を歪めてしまっては、臨床検査ではなくなってしまう。しかし、患者の状態を想像し、違和感を持つことは、客観性と矛盾するものではない。

この値は本当に妥当だろうか
なにかおかしい
患者背景を考えると、この検査結果には違和感がある


そう問い続ける姿勢があるからこそ、客観的なデータを臨床に生かすことができるのではないだろうか。

なんとなく検査を行うことと、患者を思い浮かべながら検査を行うこと。その差は、測定値そのものには現れないかもしれない。しかし、「なんか、変です」と医師へ伝える一言や、その理由を筋道立てて説明する姿勢には、確かな違いとなって現れる。

近年、AIは目覚ましい進歩を遂げている。決められた手順を正確にこなす能力だけを競うのであれば、人間はAIにかなわない日も来るだろう。それでも私は、人だからこそ担える仕事は残ると思っている。その検査結果が患者にとってなにを意味するのか。そう問い続けることは、やはり人の仕事なのではないだろうか。

「この検査結果は、なにを語っているのだろう」

そう立ち止まり、見えないものを読もうとすること。それは、データの向こうにいる患者の背景に目を向けることでもある。検査室にいると、患者は数字になりやすい。だからこそ、後輩はロビーを眺めるのだろう。「誰のための検査なのか」を忘れないために。

「読む」という行為は、文字だけに向けられるものではない。私たちは毎日、検査データを読み、患者を読み、同僚の表情を読み、ときには自分自身の心まで読もうとしている――。

 

さて、この文章をここまで読んでくださった皆さんは、今日一日の業務で、なにを読んでいただろうか。検査結果だろうか。患者だろうか。それとも、臨床検査技師として働く自分自身だろうか。  

鈴木 崇真

鈴木 崇真

臨床検査技師歴11年目。日常業務では微生物検査を担当。大阪大学大学院人文学研究科に社会人大学院生として在学。文学研究の専門分野は日本近代文学。奈良県臨床検査技師会の微生物研究班分野長。二級臨床検査士(微生物)